転がる賽子のように(4)

 姿を消した魔女ファールドの追跡は、しばらく続けられていたらしいが、それに直接関わっていたのは、神殿から依頼を受けた熟練の冒険者とか、そういう人たちだった。まあ、僕たち下っ端に言われても困るし。
 ファールドの居場所が掴めないので、一時は自警団もピリピリしていたが、三か月も経つと、もうさすがに諦めというか、安心というか、弛んだ空気が漂っていた。
 だから、その日の見回りも、全く形式的なもので――僕と、ドゥエルと、他に同僚が数人。今はリードが管理しているファールドの私邸と、隣接する研究施設の周りを、軽く偵察するだけの任務だった。
 さらさらと、細かい雨が降っていた。



「あー、めんどい。せめて雨さえ降らなきゃなあ」
 ドゥエルは、例によってぼやきながら、僕の前を歩いていた。
「エルフは水が好きなんじゃないか?」
 そう言ったのは僕じゃなく、ドゥエルの横にいた他の仲間だ。
「そりゃー、泳ぐのは得意だけどさ。雨の中歩くのは違うぜ」
 愚痴りながら、ドゥエルは、被っていたフードを、さらに目深に被った。
「だいたい、今さらなあ。忘れ物なんかあったとしても、もうとっくに取りに来てるだろ」
「わからないだろ、警備が緩くなった隙に、とか」
 僕がそう言うと、ドゥエルは肩をすくめて、振り返った。
「それを狙ってたとしたら、それこそ俺らレベルがここにいてもどうしようもなくね?」
「まあ……そうだけどさ。一応、リードさんの護衛ってこともあるし」
 リードは今もこの屋敷に住んでいる。いい根性してると思う。まあ、無人にするわけにもいかないし、何が残されてるか考えれば他人には任せられないんだろう。
 個人的にはリードがどうなろうと知った事じゃないのだが、市民を守る自警団員としてはそうも言えない。リードの術師としての腕前は姉とそう変わらない。悪だくみと嫌がらせの異常な才能を除けば、あれでも普通の人間だ。戦闘力でファールドに対抗できるわけもない。まあ、それは僕たちだって同じだが。
「最悪、逃げるくらいはさ」
「まーなー、一人で逃げるよか大勢で逃げたほうがいいよな」
「何か嫌だなそれ」
 まあ、そんな感じで、緊張感もなく。みんなで好き勝手言いながら、ぶらぶら歩いていた。
 何かが起こるなんて、誰も思っていなかった。



 ――最初に気付いたのは、ドゥエルだった。
「……なあ」
 突然立ち止まった彼の背中に、僕の鼻がぶつかった。
「何だよ、突然」
「いや……何か、変な臭いしねえ?」
 言われて臭いを嗅いではみたが、雨の匂いばかりが鼻をつく。
「別に、何も……」
 他の連中も何も感じなかったらしいが、ドゥエルの感覚が鋭いことはみんな知っている。
 やっと、緊張が走った。
「なあ、臭いって……」
 聞くと、ドゥエルは青い顔をして答えた。
「……ここんとこ、しょっちゅう嗅いでた臭いだよ」
「それは……」
 雨が、強くなる。ドゥエルの顔色は、さらに蒼白になって。
 ――僕たちの鼻にも、やっとそれが届き始めた。
「死臭――」
 雨に紛れて漂う、微かな死臭。実のところ、この街ではどこかの実験室から溢れだしてくる事も珍しくはないが、僕たちはなぜか確信していた。
 ――近くにいる。
 彼女の造ったアンデッドか、あるいは――彼女自身が。
「……ドゥエル、アーニティ、少し下がれ」
 仲間の一人――戦士の心得のあるセディが、号令をかけた。ドゥエルは僕の横に並ぶ。
 心臓が、早鐘のように鳴り始めた。
 いつでも抜けるよう、ホルスターの拳銃に手をかける。その握り手の感触が、今に限ってはあまりにも頼りなく感じた。
 全身の神経を張り詰める。雨の音が、耳を叩く。
 ――水煙の向こうで、ぱしゃ、と、一際大きく音が鳴った気がした。
「……来る!」
 ドゥエルが、叫んだ。その瞬間。
 僕たちは、魔法の雲に包まれた。
「……っ!」
 あっという間に、息ができなくなる。――なすすべもない。
 周りにいる仲間たちが、横に立っていたドゥエルが、倒れていく。
 なぜだろう、僕は倒れなかった。意識はぼやけていたけれど、確かに立っていた。周りで何が起こっているのか、何もわからなかったけれど。
 ただ、雨の向こうに、姿が見えた。世にも美しい、魔女の……。
 ちらりと、微笑みを見た気がする。――姉に容姿が似ていて、得をした試しがない。
 僕が引き金を引くのと、彼女が杖を振り上げるのと、ちょうど同時ぐらいだっただろうか。
 杖が赤く光るのが見えた。銃の音はしたかどうか憶えていない――僕の意識は、そこで途切れた。



 気が付いたら、施療院のベッドに寝かされていた。
 治療士さんの話では、僕を見つけたのはリードだったらしい――物音に気付いてか、屋敷の裏手に来てみたら、僕が一人で倒れているのを見つけて、ここまで運んできてくれたそうだ。
 なんて礼を言おうか、とか、礼なんて言いたくもないな、とか、ぼんやりと考えていた。もっと重要なことについては、頭が考えるのを拒否していた。
 『一人で倒れていた』
 言葉の意味が、だんだん頭に沁み通ってきた。
 あまりに突然で――
 信じたくなくて――
 でも、理解してしまった。



 みんな、死んでしまったんだ。



 一人ひとりの顔が――とりわけ、はっきりと、ドゥエルの顔が浮かんだ。
 でも、もう彼も、他のみんなも、目の前にいない。



 ……随分、泣いたと思う。はっきり憶えていない。
 こういう時に話をして、心情を整理できるような相手も、僕にはもういなかった。
 ドゥエルに会ってから今日まで、一年くらいの間の、色々な思い出が、頭の中をぐるぐる回っていた。



『君は、一人で倒れていた』



 本当は――
 僕は、まだ、何もわかっていなかった。



(続く)